西暦
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出 来 事 |
159
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後漢朝の外戚、梁冀が宦官の力を借りた桓帝に誅殺される |
184 |
大平道の教祖、張角が黄巾の乱を起こす(宦官は何進を大将軍としこれを鎮圧)
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189 |
霊帝が崩御し少帝弁が即位したが、董卓が洛陽で暴政を布き献帝(陳留王)を皇帝につける
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190 |
軍閥たちが各地で反董卓の連合軍として激突するが、董卓は洛陽に火をかけ都を長安へ移す
後の呉の創始者・孫権の父である孫堅が陽人の戦いで董卓軍を破り洛陽を制圧した
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191 |
中国北部の袁紹と中国中部の袁術(袁紹の従兄弟)・孫堅が対立
中国南部では荊州で劉表が、益州では劉焉が勢力を拡大
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192 |
袁紹の意を受けた荊州の劉表が、袁術の命を受けた孫堅を討つ(前後の説もあり)
董卓は長安でも暴政を布き王允の部下・呂布に殺される
董卓の部下が献帝を手中に収め事実上の統率者となるも暴政を続けたため長安は荒廃
曹操は兗州の長官となり青州からの黄巾軍30万・民衆100万を配下とし急速に勢力拡大
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193 |
袁術が兗州を攻めるが、劉表に背後を絶たれ曹操軍に大敗
劉虞が公孫瓚を攻めるが敗れて処刑される
曹操が父・曹嵩や弟・曹徳の仇討のため徐州の陶謙を攻め大勝する
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194 |
呂布が曹操に反逆し一時兗州の大半を支配する
曹操の部下、荀彧・夏候惇・程昱らが本拠地を守り激戦の末に呂布を兗州から駆逐する
敗れた呂布は徐州刺史の劉備を頼り、その保護を受ける
劉焉が死去し、その子・劉璋が益州牧となる
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196 |
呂布が劉備を追い出し徐州を支配する
呂布に攻められ敗走した劉備は曹操に身を寄せる
献帝は楊奉らとともに東に逃亡し洛陽に入る
曹操は荀彧・董昭らの計略をもと、献帝を拠点の許昌に連れて行き政治的な後ろ盾とする
許昌は許都と呼ばれるようになり、曹操は屯田制を開始する
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197 |
袁術は皇帝を自称したものの求心力を失い、その勢力は急激に衰える
孫堅の子である孫策が揚州の諸勢力に勝利し、揚州の大半を勢力下に収める
曹操は呂布・袁術などを滅ぼし、劉備を追い散らして河南から山東までの地域を統一する
袁紹は公孫瓚を滅ぼして河北から山西を領有する
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200 |
曹操と袁紹は官渡の戦いで激突する
序盤は曹操軍が優位であったが、軍本体同士の戦いで袁紹軍が勝利し、曹操は官渡の砦に籠城する
袁紹は劉備らを曹操軍の後方に派遣するなどし、曹操は一時窮地に陥る
袁紹軍から寝返った許攸の計略により、曹操は袁紹の兵糧庫を焼き払い大勝利し中原での覇権を握る
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202 |
袁紹が病死すると曹操はその子らを滅ぼし、張燕を降伏させ、圧倒的な大勢力となり南下に乗り出す
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208 |
荊州の劉表が死去すると曹操が南征を開始し荊州を併合する
劉表のもとに身を寄せていた劉備は南へ逃れる
劉備は諸葛亮の進言(天下三分の計)により孫策の後を継いだ孫権と同盟を結び曹操と対抗する
曹操軍と孫権・劉備連合軍が長江中流で激突、周瑜・黄蓋らの活躍で連合軍が勝利する(赤壁の戦い)
劉備は劉表の子・劉琦を荊州刺史に擁立し、初めて確固たる基盤を得る
曹操は北部へ戻り地盤の再建を図り、孫権は南郡を獲得した
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210 |
孫権が交州の士燮を服属させる
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211 |
「潼関の戦い」で韓遂、馬超らの豪族連合軍が曹操に大敗する
曹操軍の夏侯淵らは甕州、涼州を平定し、曹操は河北・中原地域を完全に領有する
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213 |
董昭の発案により、曹操が魏公となる
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214 |
劉備は劉璋を攻め入蜀し、荊州と益州を領有する(三国鼎立)
孫権は劉備が益州を領有したことで軍を送り込むが、和解が成立し同盟友好関係回復
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215 |
曹操が五斗米道の張魯を降伏させる
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216 |
曹操が魏王となる
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219 |
劉備が黄忠・趙雲らを率いて漢中に進軍し、曹操軍の夏侯淵を破る(定軍山の戦い)
劉備が漢中王を名乗る
荊州を守備した劉備軍の関羽が曹操軍の于禁を壊滅させ樊城・襄陽を包囲(樊城の戦い)
これに対し曹操は孫権と密約を結び、孫権軍の呂蒙・陸遜の策にはまり関羽は処刑される
関羽の死を知り激怒した劉備に対し、孫権は形式上ではあるが曹操に臣従する
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220 |
曹操の死去に伴い、後継の曹丕が献帝より禅譲を受け皇帝・文帝となり魏を建国する
文帝が九品官人法を制定する
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221 |
劉備は魏に対抗して皇帝に即位し漢の後継者と称する(蜀の創設)
劉備は関羽と荊州を失った怒りから家臣の反対を押し切り孫権討伐に自ら派兵する
当初は優勢であった劉備だが呉の陸遜の策にはまり大敗する(夷陵の戦い)
退却した劉備は白帝城で病死する
幼少の劉禅が劉備の後を継ぐが、諸葛亮が丞相として蜀の内外政を一手に引き受ける
蜀に大勝した呉は魏に隷属する必要がなくなり、劉備亡き後の蜀と再び同盟を結ぶ
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222 |
魏の文帝は三方向から呉を攻めるが、疫病の流行により退却を余儀なくされる
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226 |
魏の文帝が死去、曹叡が後を継ぐ(明帝)
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227 |
蜀の諸葛亮が出師の表を奉り、魏に向けて北伐を開始する
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228 |
呉は周魴、陸遜の活躍で魏の曹休軍に大勝する(石亭の戦い)
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229 |
呉の孫権が皇帝を名乗り、同時代に三人の皇帝が並び立つ
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234 |
北伐中の諸葛亮が病死するが司馬懿は撤退する(死せる孔明、生ける仲達を走らす)
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235 |
魏の王雄の命を受けた韓龍が鮮卑族の軻比能を暗殺する
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238 |
司馬懿の権力拡大を警戒した魏の中央が司馬懿の討伐を命じる
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三国時代要図(262年) |
239 |
曹叡は司馬懿と皇族の曹爽に曹芳の貢献を託すが、曹爽は司馬懿を閑職においやる
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244 |
魏が高句麗の首都を陥落させる
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249 |
司馬懿は息子の司馬師らとともに蜂起し、曹爽一派を殺害し魏の権力を完全掌握する
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250 |
呉の孫権は皇太子の孫和とその弟の孫覇を同等に処遇していた
呉はその間両派の対立で国力が衰退したが七男の孫亮を皇太子に立て決着する
孫和は廃太子され、孫覇は自害を命じられる(二宮事件)
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251 |
司馬懿が死去(その後は司馬師、司馬昭が受け継ぐ)
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252 |
呉の孫権が死去
10歳の孫亮が皇帝となると大将軍の諸葛恪が実権を握る
孫峻がクーデターを起こし諸葛恪は殺され、孫峻が丞相となり政権を握る
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255 |
毌丘倹の乱
蜀の姜維が魏の王経に大勝する
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256 |
呉の孫峻が死去、孫峻の従弟の孫綝が権力を握る
蜀の姜維が段谷の戦いで魏に大敗する
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257 |
諸葛誕の乱
呉の皇帝孫亮が孫綝に廃位され、孫権の六男・孫休が皇帝に擁立される
孫休はクーデター計画を聞き孫綝を捕え、処刑する
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263 |
蜀では宦官の黄皓が政治を乱し、皇帝・劉禅が遊び呆けていた
魏の司馬昭はこれを好機ととらえ軍を派遣し蜀を滅ぼした(蜀漢の滅亡)
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264 |
呉は蜀の混乱に乗じて永安城を攻めるが、魏の援軍に阻まれ撤退する
呉の皇帝・孫休が病死し、孫皓が即位するがその暴政により呉が乱れる
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265 |
司馬昭が死去し息子の司馬炎が後を継ぐ
魏の曹奐は司馬炎に禅譲し魏が滅び、司馬炎は西晋を建国する
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270 |
鮮卑の禿髪樹機能らが西晋に反乱をおこす
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271 |
呉が交州の西晋軍を破る
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272 |
歩闡が呉に背いて西晋に寝返るが、呉の陸杭がこの反乱を鎮圧
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277 |
西晋の司馬駿・文鴦が禿髪樹機能を降伏させる
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279 |
禿髪樹機能が再び西晋に反乱を起こすが西晋の馬隆に滅ぼされる
西晋の司馬炎は後に出兵する
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280 |
呉を滅ぼした司馬炎(武帝)は中国統一を実現(三国時代の終焉)
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